可哀想

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さて、今年の夏頃にTwitterで話題になっていたらしいので、既にご存知の方もいらっしゃると思いますが、朝日新聞に次のような投書が載りました。

足をけがした6歳に息子が「僕、がんばって幼稚園まで歩くよ」と言った。
片足を引きずりながらゆっくり歩く息子に付き添っていたら、通りすがりのご婦人たちから
「あんな足で歩かせて可哀想に」という会話が聞こえてきた。
息子に妹ができ、おむつを買いに行った。
「僕が持つよ。お兄ちゃんだから」と頼もしいことを言ってくれた。
任せたら「あんな小さな子どもに荷物を持たせて。可哀想に」
と他人から非難された。
息子の頑張りが「可哀想に」という一言で全否定された気がした。
「可哀想に」という人は、自分が優しい人間だと思っているのかもしれない。
しかし、この言葉は浅はかで無責任で、時に人を傷つけ、何も生み出さない。そのことを知って欲しい。
<2016/7/17 朝日新聞>

私は最近になって、たまたまこの記事を目にしたのですが、何だかとても考えさせられました。
投書は子育ての場面でのお話として書かれていますが、子育てに限らず、会社や地域、友人関係など、様々な場面においてもこの「可哀想に」という言葉、意外と使っているのではないでしょうか。
もちろん言っている人は傷つけようと思って使っているのでないことのほうが多いのでしょうけれど、その言葉をかけられた人にとっては、このように傷つけられることもあるのだと、改めて気づきました。考えてみれば、言っている側は、その経緯や背景を知らずに一部分だけ見ているわけですし、そのことについて当人がどう考えているかなんてわからないわけですから、可哀想という感覚は、その言っている人の感じたことでしかないわけです。だから、時と場合によっては、独善的な言葉になってしまうのでしょう。

いや、ほんとうに言葉って大事ですね・・・気をつけようと思います。

ご縁に感謝!
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